さあ、と一陣の風が吹き抜けた。
風に煽られて桜の花びらが一枚、また一枚と宙に舞う。
空から降り注ぐ雪に触れるように、レンはそっと右手を差し出した。
しかし、風に流れる花びらが手のひらに落ちる事はない。
するりと指の間をすり抜ける花びらを一瞥して、レンは小さく苦笑をもらした。
この時期、レヴェイユの街には立派な桜が咲く。
時の神殿を訪れる観光客が多いため、景観を意識しての事らしい。
昔からあるものなのでとっくに見慣れてはいるのだが、それでもやはり、こうして満開の桜を眺めると綺麗だと感じる。
薄桃色の花は、相変わらず風に揺れていた。
月の光を浴びて淡く光るそれを眺める時間が、レンは好きだった。
心を落ち着けたい時はこうして外に出て、ただただ桜を眺めるのだ。
飽きるまで、ずっと。
ーーーー綺麗だな。
浮かんだのは、何の飾り気もない感想だった。
レンは目を細めて、じっと桜の木を眺めている。
瞳に焼き付けるように、いつでもこの光景を思い出せるように。
「………レン?」
小さく、レンの名前を呼ぶ声がした。
はっとして振り向くと、そこには幼い少女が立っていた。
少女は不思議そうな顔でレンの様子を伺っている。
「どうしました、リゼル?」
少女ーーリゼルは小さく頭を横に振ったあと、足を踏み出して一歩、
また一歩とレンとの距離を詰めていく。
やがてレンの隣に立ったリゼルは、先程とは違い心配そうな色を見せる瞳でレンの顔を見上げた。
「………部屋に、いなかったから」
探した、と彼女は続けた。
「それは………申し訳ありません。
この時間、お前は寝ているものだと思っていたので」
リゼルは寝るのが早い。だからてっきり、今日も床に就いたものだと思っていた。だから彼女には声を掛けずにここへ来たのだ。
レンの言葉に、リゼルは再び頭を横に振った。いいよ、と言いたいのだろう。
彼女は口数が少なく表情もあまり変わらないが、長い付き合いなだけに彼女の言いたい事は手に取るように分かった。
リゼルは視線をレンの顔から眼前に広がる桜の木へと移す。
「桜、見てたの?」
「ええ。何だか無性に見たくなって」
ほう、とリゼルは小さく息を吐き出す。言葉には出さないが、綺麗と言いたいのだろうなとレンは思った。細められた目、微かに上がった口角に、リゼルがこの景色に感動している事が伝わった。
しばらくリゼルの様子を伺っていると、彼女はおずおずと右手を前に差し出した。
無数に舞う花びらを捕まえようとするその動きを見たレンは、考える事は同じだなと思わず笑みを零してしまう。
しかし、やはりというべきか、リゼルの手に花びらが捕まる事はなかった。
それでも諦めずに捕まえようとするリゼルの姿に、とてつもない愛おしさを感じてレンは彼女の肩を引き寄せた。
驚いたような表情でレンを見るリゼル。
だが、すぐにそれは微笑みへと変わった。
肩に置かれたレンの手に自らの手を重ね、頭をレンの体へと預ける。手から伝わる彼女の温もりが、どうしようもなくレンの心をかき乱した。
ーーああ、幸せだ。
彼女と共にいられるこの時間を失いたくない。
大切な存在が目の前でいなくなるなど、もう二度とあってはならないのだ。
自分が、この少女を守らなくては。
彼女の両親を守れなかったのは自分に力がなかったから。力があれば、きっと、彼女の心に暗い影を落とす事もなかっただろう。
嬉しい時に笑い、悲しい時に泣く。そんな当たり前の事すら、彼女は我慢するようになってしまったのだ。
子供である事を忘れようとする彼女の姿を見つめ、かつてそうしたように、レンは再び強く心に誓った。
彼女を守る、と。
そうすればいつか、昔みたいに無邪気に笑う姿を見せてくれるはずだ。
花びらの雨が降る中、レンは固く瞳を閉ざした。